三島太鼓台の歴史

(三島西町愛好会保存の資料より抜粋)

【戦前の太鼓台】

 

三島太鼓台の特色は、絢爛豪華な色彩にあります。

一番上部にあるくくり(通称 トンボ)はびろうヒビロードを用い、その下の七重(しちじょう、ほう蒲団)には七色の彩色を施し、四本柱の欄間には各種の彫刻や貝細工による螺鈿(らでん)を施し、金糸、銀糸をふんだんに使用した房や、かけ蒲団(茂多連蒲団)等華美を競いました。

 

太鼓台の運行に当たっては地区の長老が総代に選ばれ、世話人を置き、その下に若衆組があって実際の運営に当たりました。

 

運行順は、神輿の次には浜の関船、二番は川原町というように定められていました。

 

太鼓台は10月21日の宵祭りに組み立て、七重や蒲団を取り除き、若衆のみで夕方から三島神社まで担いでいきました。

 

10月22日の氏参りの日には、完全に盛装して地区から出発し、主として三島町内を各個に運行しながら、富裕の家から御花を受けました。

 

10月23日神祗(じんぎ)の日には、定められた時刻に地区を出発し、神輿が三島神社を出御した後、定められた地区順に従い御旅所まで神輿についていきました。本来は一日中車を使用しませんが、人手不足により御旅所での祭礼後は車を使用しました。


【戦後の太鼓台】

 

戦後、太鼓台は一時衰退していましたが、昭和30年頃から盛んになり始めました。

ところが暴力団関係者が都市から帰り、太鼓台に群がり、わざと太鼓台どうしがけんかをするように仕向けたり、これを阻止しようとする地元青年団員に暴行を働いたりする事件が度々起こり、青年層の人手不足、破損した太鼓台の修理費用の問題等で、次第に運行を中止する地区が増えてきました。


【子供太鼓台の復活】


このような中で、子供たちに故郷の楽しい思い出をお祭りにもたせてやろうという声が上がり、地区の愛護班とPTAが中心になって、手作りの子供太鼓台を造り始めました。


昭和42年、市内6つの愛護班が前谷酒造店等から酒樽を寄付してもらい、子供樽御輿を造り、これをかついで町内を回りました。以後、各地区では母親らが帯を持ち寄ったりして、幾晩もかかって手造りの太鼓台作製に努力しました。


昭和49年から愛護班、児童館が中心になって子供太鼓台による市内統一行動が組織化され、10月23日に伊予三島市役所前に集合し、市内の定められたコースをパレードするようになりました。